COMPANY
              
              
                まちとともに暮らしをつくる安田不動産
              
            「安田不動産」の事業内容
            営業推進部
                当社管理物件のテナント募集を行う部署
              営業部
                不動産の売買仲介を行う部署
              海外事業室
                海外事業に関する業務を全て担う部署
              開発部
                開発第一部:群管理エリア(神田錦町)での開発を行う部署
開発第二部:群管理エリア外(地方都市も含む)での開発を行う部署
開発第三部:群管理エリア(日本橋浜町)での開発、商業物件の開発及び商業テナントの誘致を行う部署
開発第四部:主に住宅の開発を行う部署
              開発第二部:群管理エリア外(地方都市も含む)での開発を行う部署
開発第三部:群管理エリア(日本橋浜町)での開発、商業物件の開発及び商業テナントの誘致を行う部署
開発第四部:主に住宅の開発を行う部署
資産営業部
                資産営業第一部:神田錦町・日本橋浜町エリアの物件の管理運営及び貸地の管理を行う部署
資産営業第二部::神田淡路町・その他エリアの物件の管理運営を行う部署
              資産営業第二部::神田淡路町・その他エリアの物件の管理運営を行う部署
関西支店・横浜支店
                関西エリア・横浜エリアの営業・開発・ビル運営を全て担う支店
              HISTORY
              安田不動産の歴史
             
              01/07
                  創業前史~昭和24年
                    勤倹力行と前垂れ主義
                    我が国に資本主義が芽生え、発展した激動期。安田善次郎翁は舵取り鮮やかに、一代で金融の安田財閥を築いた。その才覚と先見の明で財をなした彼が貫いた信念は「勤倹力行」と「前垂れ主義」であった。善次郎亡き後も、この精神は当社にも連綿として受け継がれている。そして迎えた昭和20年8月のポツダム宣言受託。安田保善社の三代目総長安田一は他財閥に先駆けて安田保善社の自主的解散を断行した。資産の清算において全国に散在する残余不動産を現物出資して第二会社を設立し、清算整備計画が認可されたのは昭和25年8月であった。
                   
              02/07
                  昭和25年~昭和39年
                    永楽不動産の設立と発展
                    昭和25年9月1日、安田保善社の第二会社として永楽不動産が産声を上げた。小口の貸地からなる土地13万3千坪、所有建物35坪を出資財産とし、役職員10名足らずのスタートであった。わずかな地代収入を基礎とする第二会社は、「失業者を1人も出さない」という固い決意で様々な事業を手がけた。
                   
              03/07
                  昭和40年~昭和52年
                    不動産業としての新たな展開
                    昭和40年の永楽不動産築地ビル建設を皮切りに、神戸三宮や東京各地の貸地収用の代替資産として数棟のビルを購入した。当社は従来の貸地を主とする業務だけでなく、貸ビル業務へも進出し、事業を拡大させていった。そして、昭和45年には社名を「安田不動産株式会社」と変更した。
                   
              04/07
                  昭和53年~昭和62年
                    貸ビル事業拡大への試み
                    昭和53年、借地人との共同ビル第一号のオームビルが竣工した。昭和60年頃からは都心商業地を中心に地価が高騰した結果、ビル用地の確保が困難になった。そこで当社は貸ビル事業を拡充していくため、お茶の水ユニオンビル、築地KYビル等の共同ビル事業を進め、着実に事業を拡大していった。また、共同事業者から建物の企画、運営、管理等も受託することで、ビル経営のマネジメント機能も強化していった。併せて底地を売却した買換資産として賃貸ビルを継続的に取得することで、創業以来の貸地事業だけでなく、貸ビル事業も業績の主軸となるまで成長した。
                   
              05/07
                  昭和63年~平成10年
                    大規模再開発への挑戦
                    昭和62年以降急速に回復した内需主導型景気は、株価や地価の急騰という「バブル」を発生させた。着実に利益を拡大しつつ、来たるべき21世紀に向けて、新たに舵を切るために、まず当社が最初に掲げたのが人材力の強化である。昭和62年からは人材強化のため、新卒の定期採用を開始した。まちづくりにおいても、平成2年には中央区の日本橋浜町で「住み続けられ、働きつづけられるまちづくり」をテーマとした準備協議会が発足した。当社としては過去最大の再開発であったが、地権者、行政、関係会社等の協力を得ながら、様々な困難を乗り越え、事業を推進した。平成9年には日本橋浜町再開発プロジェクトの第一弾として日本橋浜町Fタワーが竣工した。
                   
              06/07
                  平成11年~平成25年
                    参加型開発手法の成果と分譲事業
                    日本橋浜町Fタワー竣工の勢いそのままに、敷地面積2,660坪、日本橋浜町再開発プロジェクトの中心プロジェクト「日本橋浜町三丁目西部地区第一種市街地再開発事業」は、平成11年に都市計画決定を得て、平成13年に組合が設立された。また、同時期の平成9年には神田淡路町で、淡路地域まちづくり計画推進協議会が発足した。従来みられる買収型の開発手法ではなく、地域住民と一体となった参加型の開発に信念を持つ当社では、丁寧かつ着実に両事業を推進した。「日本橋浜町三丁目西部地区第一種市街地再開発事業」(現トルナーレ日本橋浜町)は平成17年、「淡路町二丁目西部地区第一種市街地再開発事業」(現ワテラス)は平成25年に地域の想いをこめて竣工し、地域のシンボルタワーとなるとともに、当社の安定した収益基盤を担っている。また、平成14年には当社の分譲マンションシリーズである「レフィール」の第一弾である「レフィール日本橋浜町」が分譲され、現在に至るまで多くのお客様に喜ばれる住まいを提供し続けている。
                   
              07/07
                  平成26年~
                    正直かつ王道であれる会社へ
                    そして現在、日本国内経済に停滞感がみえる中、当社としては次の時代に向けて新たに舵を切った。インバウンド関連事業への本格参入だけでなく、グローバル化を見据えた長期的戦略の構築。また、従来から積極的にまちづくりを推進してきた千代田区(神田錦町、神田淡路町)、中央区(日本橋浜町)のエリアマネジメント拡充。さらに平成28年には港区西新橋に竣工したマークライト虎ノ門を先陣に、新たなエリアのまちづくりにも参画していく。安田不動産は来たるべき未来に向けて、安田善次郎翁から受け継いだ「客人第一」、そして現在の当社の信念である「継承 × 創造」という想いを胸に、総合不動産会社として決して歩みを緩めることなく、挑戦し続ける。